http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc107.html



我々は一口に原爆というが、広島と長崎では別タイプ(威力も含めて)のものであることを忘れがちになる。

広島に投下された原爆はウラン型だった。

次の長崎は性格の違うプルトニウム型で、しかもこのプルトニウム型原爆は、長崎の次の目標地にも準備された型であった。


広島投下1ヶ月前の1945年7月16日、アメリカは、ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験に成功する。この時の原爆もプルトニウム型であった。ここで重要なことは、ウラン型原爆は現在でも開発されていないということである。つまり広島に投下された原爆(ウラン型)は実験済みの原爆ではなくて、人類に対する最初にして最後の原爆だったのだ。

 

 
(左)ウラン型原爆「リトル・ボーイ」 (右)プルトニウム型原爆「ファット・マン」

 

なにゆえに、日本に2つのタイプの原爆が投下されたのだろうか。

今でもアメリカの原爆の開発計画と日本への投下計画は最高機密であるが、ベラスコの証言の信憑性が高いことは、次の一端だけでも理解できよう。

広島に投下されたウラン型原爆は、テスト実験もなく、いきなり本番の兵器として使用され、現在まで幾多の核実験を含めて一度も使用されていない。長崎に投下されたプルトニウム型原爆は科学者主導で研究開発され、記者や科学者を爆撃機に搭乗させて大々的にアピールされた。しかし広島行きのエノラ・ゲイ号の「リトル・ボーイ」は一部軍人以外、科学者の目には触れさせないようにして投下されたのだ。

 


広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」

 

当時、ローレンスという名の記者がいたが、この男は世界でただ1人、アメリカ政府によって原爆計画の取材を許可されたジャーナリストであった。しかし、ローレンス記者はエノラ・ゲイ号に世界初の目撃者として搭乗させてもらえなかったばかりか、搭乗員との接触、そして原爆の搭載にも立ち合わせてもらえなかった。しかし2番機の長崎爆撃の際には、ローレンス記者は搭乗し、しかも出発前の原爆搭載風景、パイロットの心境その他、多くの場面を目撃させられている。それはなぜなのか。なぜ1番機のエノラ・ゲイ号には一切触れさせてもらえなかったのか。20億ドルの巨費を使ったプロジェクトにたった一人の目撃者作りという、慎重な検討を感じさせる当局側の意図によって前線記者として狩り出された意味は一体何なのか。彼は何に対して目をふさがれたのか。

また、1978年に「オークリッジ国立研究所」が放射能の影響を調査するため、国防総省核防衛局に広島型(ウラン型)の核実験を要請するも「広島型原爆は1個も存在しない。作るのは危険であり同じものはない」との返答だった。ところが、1981年5月になってHNK取材班がロスアラモス研究所付近の倉庫に3個の「リトル・ボーイ」(ウラン235型)が保管されていることを発見したのである。この事実を知る者はアメリカ原子力機密法に触れるため、誰にも喋れなかったというが「ない」はずのウラン235型が「あった」のだ。その理由について正式な回答は今もってない。
これらの謎は、「リトル・ボーイ」がナチス製原爆だったとすれば全て納得できることである。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html

■■第4章:戦争犯罪者 トルーマン大統領


●「原爆ホロコースト」に重大な責任がある人物を挙げるなら、その筆頭は、直接ゴーサインを出したトルーマン大統領だろう。

「原爆の誕生」自体は、当時の「原子物理学」発展の流れにおいて避けられなかったとしても、原爆の「実戦使用」に関しては、彼個人の「政治的な判断」で避けようと思えば避けられたのだ。(原爆は作った人よりも使う人に問題があると思う)。

しかし彼は、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。彼は誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。

彼は日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。彼は自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。

 


原爆の「対日使用」にゴーサインを出した
第33代大統領 ハリー・トルーマン



1958年2月3日 『東京新聞』

【上の記事の内容】=トルーマン前米大統領は2日、
CBSテレビ放送番組「今だから話そう」の対談に出演し、
「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。
これからも万一の場合、水爆使用はたしかだ」と語った。 〈中略〉

「我々が強力な新兵器を持っていた以上、それが大量殺人兵器
だからといって、私はこれを使うことに良心のとがめを感じることはなかった。
戦争には反対だが、勝てる兵器を持ちながら、それを使わなかった
とすればバカげたことである。」 〈後略〉

 

●広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。

だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、

第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

 

 

 

  

トルーマン大統領は原爆の惨状についての
報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。
そして被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。

  

 

●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。

 


被爆者である橋爪文さんが書いた
『少女・14歳の原爆体験記』(高文研)

詩人の感性を持つ少女の目を通して、被爆の実相と、
廃墟に生きた人々の姿が克明に描かれている。
「ABCC」の実態についても触れられている。



「原爆傷害調査委員会」と訳されたアメリカ軍施設「ABCC」

 

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは
人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。

治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。

このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」


サダコの鶴 広島原爆投下ABCCのシーン https://youtu.be/2N89tv7-jXc 

 



 
原爆は通常の爆弾と違って、深刻な
「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。

放射線の影響は、その後長期にわたってさまざまな障害を引き起こした。
体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、
50年以上経過した現在でもまだ十分に解明されておらず、
被爆者はこれらの後障害で今なお苦しみ続けている。

現在もアメリカは被爆者たちを追跡調査している。


 
放射線の影響によって、髪の毛がごっそり抜け落ちてしまった姉弟


 
被爆して顔面に大ヤケドを負った6歳の少女。包帯姿が痛々しい。
後ろにいる母親は左腕と両足をヤケドし歩くことができなかった。
この親子は広島地方専売局の臨時救護所に通い続けた。
当時、彼女たちは一生消えない傷を背負って、
戦後を生きていかねばならなかった。



1993年2月5日 『朝日新聞』

【上の記事の内容】=ネバダ核実験場を管轄している
米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、
広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが、
4日、明らかになった。同事務所は「分類方法に不適切があった」とし、
「次版から書き方を変更することを検討する」としている。 〈後略〉

 

 

トルーマン大統領の原爆に関する「罪」は、これだけでは終わらない。まだ大きな責任がある。

大戦の終結とともに、アメリカは「世界最初の原爆保有国・使用国」として、原子力を厳重に管理して、世界に原爆を拡散させないようにする重大な責任があった。「原子力の国際管理」は地球の未来を占う非常に重要なテーマであった。

第2章でも触れたように、1946年、トルーマン大統領の国連特使を務めたバーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。

また、大戦の終結とともに、「マンハッタン計画」に参加していた科学者たちは、原子力研究を平和時の状態に戻し、「軍管理体制」を解除するよう求めていたが、トルーマン大統領はこうした動きを完全に無視して、原爆の開発を軍の指揮下で積極的に推し進めた。そして、1948年には「サンドストーン計画」という「原爆大量生産計画」をスタートさせたのである。


●そして、1949年にソ連が「原子爆弾」の開発に成功すると、トルーマン大統領は、翌年1950年に「水素爆弾」の開発にすんなりとゴーサインを出してしまった。

1952年に最初の「水素爆弾」の実験が行なわれたが、この時、太平洋の小島「エルゲラブ島」が消滅してしまうほどの威力を見せつけた。

この水爆実験成功によって、ユダヤ人科学者エドワード・テラーの唱え続けていた「超強力爆弾」の理論が妄想でないことが実証されたのである。

 


「水素爆弾」は広島に投下された「原子爆弾」の
1000倍以上の破壊力を持つ悪魔の兵器である

 

1954年3月1日に行なわれた「水爆」実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、テラー博士の作品であった。

恐ろしいことに、日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。